捨て石となる

今日、高校の後輩と話していたときのこと。

私:「後輩に色々と教えて居るんだけど、その意味が分かってもらえないって事が良くあるんだよね〜。」
後輩:「その時は、分からないんだけど、後になってハッと気づいてもらえるってことってあるんじゃない?」
私:「そうだな。捨て石というか布石というか、そうみたいなものだな。」
後輩:「そうですね。」

実は、その時、聖書の言葉を思い出した。

『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(マタイ 21:42)

これは、主イエス・キリストが私たちの罪のために身代わりとなって十字架に付けられて、私たちに救いの道が開かれたという事実があまりにも不思議で、私たちの頭では理解出来ないという意味である。

そのあと、「やわらかな心をもつ」を読んでいて、偶然、以下のような箇所に出くわした。

実は、私は、小沢征爾さんの大ファンなのだ。彼の生き様、センスにはかなり惹かれるものがあるのだ。その神髄に触れたくてこの本を読んでいたところだった。

教育ってのは、碁でいう布石みたいなものでね、いい布石をやっても、それが効果が出るのは、大分先の話ですね。捨石ってことばがあるでしょう。ポンと石をおいて、こいつは下手につかうと、処置なしなんですし、あるいは、全然、無益無害かもしれないわけですね。ところが発展したある段階で、猛烈にこいつがきいてくることもあるんですよ。つまり一つの石のために、勝負がきまることもあるんです。要するに人生の一つ一つの過程で、いい布石、又は捨て石をしてやるということが、教育者、おとなのつとめなのでしょうね。

我が意を得たというのはこのことを言うのでしょうか。今年の生き方を示されたような気がしました。主に感謝したいと思いました。