進化論

 僕が、初めて進化論を学んだのは、中学の時ですが、非常にすっきりしない思いを抱いたことを思い出した。どうしても、私たちが猿から進化したとは、思えなかった。教科書をいくら読み返しても、進化論が正しいと言うことは、納得できなかった。感覚的に言って受け入れられなかったと記憶している。当時は、余り深く考えることはなく、暗闇の中に葬られた格好になっていた。

 最近は、ダーウィンの進化論を批判する「インテリジェントデザイン(ID)」論を学校教育に取り入れる動きが米国で広まっているという話を読んで、昔のことを思い出した。

http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html

 IDとは、この宇宙自然界の成り立ちを目的も計画もない機械的な力だけで説明しようという無理なことはやめて、自然的要因としての「必然」(自然法則)や「偶然」のほかに「デザイン」という要因を科学として認めようではないかという理論です。英語の「デザイン」は、構想、計画、設計、意図、意志、目的といった概念すべてを含みます。長年、科学の約束となってきた自然主義(唯物論)、つまり自然界の謎は自然界の内部で解決できるはずだという前提を揺さぶるものなので、特にダーウィニズム陣営からの反発が強いのです。

 進化論が、論理的にも史料などの証拠から見ても矛盾だらけであることが証明されていることを、何らかの本で読んだことがある。そう言った現実から、IDが出てくることは、自然な動きではあると思うが、ちょっと違うように思う。デザイナーとしての創造主を科学的
手段により、証明することが果たして出来るのであろうかと疑問を持っている。造られしものが、造った人の存在を証明するなんて、どう考えても変で、僭越行為のように思う。デザイナーの存在を認めること自体は、正しいことであり、生きる意味を見いだし、正しい方法に進むことが出来ると思う。

 ――推進しているのはキリスト教右派とされています。旧約聖書に基づく創造論の「神」を「知的存在」に言い換えているだけでは?

 もしそんなものであるなら、これを支持する科学者は一人もいないでしょう。米国の記者もよく「何で早く神と言わないのだ」と質問しますが、ID理論家はあくまで科学的実証から出発するわけで、彼らは、自然的要因からは生じえない「デザイン」の事実が厳密に実証できるのだから、従ってデザインの主体、デザイナーの存在が推論できるのだと言っているのです。神から出発するのではないのです。キリスト教右派だとか宗教勢力の画策などというのは、そういうふうに見たがる人の言うことです。

 神の存在という問題を抜きにして、IDを語るべきではないと考えている。神格とは、まさに、(1)絶対的な存在であり、(2)全てのもののはじまりであり、この2つが一体となったモノであるはずであるからである。なぜなら、どちらか一方が欠けても、このような秩序正しく美しい世界が造れるわけがないからである。

 ――日本の学校でも教えるべきですか?

 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。

 確かに、自己存在の意義を失いつつある日本人には、必要な教育であるが、宗教や霊的なものを除外すべきではないと考える。これらも含めて統合的に教育されることを強く望む。